院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


盤山精肉

 
 
 外来診察は、意外と骨の折れる仕事である。患者様(以前は様を付けることに、抵抗感というか違和感があったのだが、最近は積極的に付けるようにしている。時代は変わるものである)に合わせて、態度や声色を変えたり、語彙や表現を工夫しなければならない。これもひとえに、病気や症状にしっかりと向き合ってもらい、治療効果を最大限に発揮させるための重要な技術なのだが、そのような努力が虚しく感じられる患者様が少なからずいるのもまた事実である。懇切丁寧に説明し、理解していると思われるのに、何度も同じ質問をする。客観的には症状の改善が見られるのに、全然善くならないと訴える。インターネットで仕入れてきた情報を独善的に盲信し、持論を展開する。最近話題のモンスターペイシェントは論外としても、(ぎりぎり)常識的な範囲内で考えても、そういう扱いにくい患者様は、かなりの数に上るだろう。医局での雑談でも、そういう患者様の話題には事欠かない。わたし自身の中でも、ついつい患者様の色分け(善い患者様と、そうでない患者様)をしていることに気がついた。順番待ちのカルテを見て顔を思い浮かべる際、気分穏やかな時と、ため息をつく時があることを正直に告白する。
中国の故事成語に「盤山精肉」という言葉がある。盤山という僧が町の市場を通り掛かった。肉屋の前で、店の主人とお客の会話を耳にする。客は主人に「良い肉を売ってくれ」と言った。すると、店の主人は「旦那さん、うちの肉はみんないい肉ばかりだ。どこに良くない肉があるというんだね」。と、言い返している。盤山はこの話を聞いて「よい」「わるい」を作り出すのは、人の心に他ならないことを悟ったのである。値段の高い肉もあるし、安い肉もある。また脂身が多かったり、筋ばった肉もあるだろう。しかし、それを悪い肉として評価するのは、極めて個人的で偏狭な価値基準であり、肉屋にしてみれば、どんなお客様にも満足して選んでいただけるように、心をこめて幾種類もの「良い肉」を売っているのである。
 患者様を肉に例えるのはいかがなものかとは思うが、患者様は教育レベルや性格の違い、自己表現の多様性はあるけれども、「良くなりたい」という気持ちは同じであり、皆、切なる健康への願望を持って来院しているのである。「医者は迷える羊の群れを導く、聖人君子たるべし」だとは、おこがましくも言えない。しかし、その羊の足下を照らす灯りにはなれるだろう。太った羊、痩せた羊、気難しい羊、自暴自棄になった羊、様々な羊がいる。我々の為すべき事が病気の治療だけではなく、病める人のトータルケアであるならば、いつか彼等は足下の灯りに力を得て、進むべき道を捜すだろう。人は皆、健全な人生を送る権利があり、それを求める姿勢に「よい」も「わるい」もない。
心安らぐ模範的な患者様が、いつのまにか来院しなくなったと思ったら、他院に通院していると人づてに聞いた。少しやっかいだと感じていた患者様が、知り合いの人を、いい病院だからと連れてきたりする。「盤山精肉」、自分の矮小な価値観を戒める警鐘として、心に留めたい言葉である。




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